イジメはなくせます by弐月直也

学校裏サイト掲示板ブログ

いじめの定義…ここ書きなおさなきゃね…

うん。

文部科学省が作った「いじめの定義」ではなく、

マキャベリアン」のことです。

ここ。↓

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②イジメの定義と、見分け方について
(イジメがなくならない理由)

イジメの定義は、「正当な理由なく人や動物を虐げること、また、人や動物を虐げているように見える行為」だ。
平たく言えば、イジメとは、「イジメに見える行為」のことを言う。

他人から「イジメに見える行為」は、全てイジメとなるから、イジメという言葉の意味する範囲は、とても広くなる。
そのために、イジメという言葉の意味の中には、本来のイジメではないものも含まれていることになる。
これは、イジメという言葉が、例えば、【自分の肉体をいじめる】というような、比喩としての使い方があることからも見てとれるだろう。

このように、イジメという言葉の中には、「イジメに見えるが本当はイジメではないもの」と、「本物のイジメ」が含まれていることになる。

そして、本来のイジメは、「本物のイジメ」のことでなければならない。
それだからイジメを、本来のイジメである「本物のイジメ」と、「イジメに見えるが本当はイジメではないもの」とを区別するために、どこかで線引きをする必要がある。

「本物のイジメ」と「イジメに見えるが本当はイジメではないもの」とを区別する基準は、ある「イジメに見える行為」が、一方の人間によって、「積極的」かつ「執拗に」行われているかどうかだ。

「本物のイジメ」には、「積極性」と「執拗さ」の両方が含まれていなければならない。
イジメとは本来、快感を得るために行われるという性質上、人が嫌がることを一方的に仕掛けていこうとする「積極性」と、人が嫌がることを好んで繰り返したがる「執拗さ」とを、持ち合わせることになるためだ。

つまり、イジメを見分けるには、まず「イジメに見える行為」を、イジメとして拾い上げて、それに「積極性」と「執拗さ」の両方が認められるかどうかを判断することによって見定めることができる。
「積極性」と「執拗さ」が両方そなわっているように見えれば、それは「本物のイジメ」である。

分かりやすく言うとこうなる。
「本物のイジメ」とは、人がされて嫌と思うことを、わざとしつこくやっている行為である。

遊びなのかケンカなのかイジメなのか分からない、疑わしい行為があるとき、一方に「積極性」と「執拗さ」の両方が、わずかでも認められれば「本物のイジメ」と判断される。反対に、どれほどの暴言や暴力があっても、「積極性」と「執拗さ」が、少しでもセットで確認できなければ、それは「本物のイジメ」ではない。

ここでもう一つ重要なことは、イジメという言葉の意味の中には、イジメかどうかは、他人が判断するものだという観点が含まれているということだ。

イジメかイジメでないかを決めるのは、他人であり、当事者がどう思っているとか、直接的に行われているのか、間接的に行われているのかということとは、まったく無関係である。

このように、「本物のイジメ」と「イジメに見えるが本当はイジメではないもの」とは、理論上ではっきり区別することができるが、このようなことは、現実のイジメを知るには、何の役にもたたない。

現実の世界において、イジメの定義は、強い者が決めるのだ。

いじめっ子は、イジメの3原則を守るから、弱い者を力で押さえ込むことができ、弱い者たちの前では、自分がイジメをしていることをさらけだすことができる。
強さが同等の者たちの前では、イジメではないという建前を主張することで、非難されることから逃れることができる。
自分より強い者たちの前では、イジメは隠れてやるから、強い者や社会の大衆からは、イジメがあることは知られない。

要するに、イジメは外に発覚しないということだ。

このようにイジメは、自分たちが一番強くなれる場所でしか行われないから、そこでは、いじめっ子が一番強くなる。

そのために、現実の世界において、イジメかどうかを決めるのは、強者であるいじめっ子であり、いじめっ子が作ったイジメの定義とはこういうものだ。

イジメとは、「イジメはあるが、イジメではない」。

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今、読み直すと前半がおかしい…。

でも、すぐには書きなおせません、

もうちょっと時間がかかりそうです…。

第2章も書かないといけないし。

 

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